中学1回生 吉澤 幸夫
中学1回生 藤本 義男
中学1回生 吉澤 幸夫
■今から45年前(1964)中学1回生 藤本 義男
都立武蔵中学校の絞章─旧校章─について以前から疑問に感じてたことを遅ればせながら調べていた過程で、たまたま、このエピソードを耳にすることができた。
手塚校長は、明治28年(1895年)生れであるので、日露戦争のことも、うっすら記憶されておられたであろう。東京高等師範文科第三部(英文学)在学の時代は、第一次世界大戦中で、まだ日英同盟は継続していた。東京帝国大学文学部国文学科在学中の大正12年(1923年)に関東大震災があった。概ね先生の学生時代は、いわゆる大正リベラリズムの時代にあたる。
軍縮会議、世界恐慌を経て、満州事変(1931年)、五・一五事件。二・二六事件と日本および世界の情勢の変革は大きく、次第に日本は、国粋主義、軍国主義に傾斜し、昭和13年(1937年)日中戦争勃発、日独伊三国同盟締結(1940年)と、次第に世界の中で孤立していく。欧米にあこがれながら、欧米、何するものぞ、というムードを日本人の大多数がもっていた。
手塚校長は、高師卒業後、義務年限を奈良県立郡山中学校英語教諭として過された。その期間、高師卒という学歴に悩まれたことが起こったようで、決心されて大正10年(1921年)東京帝国大学文学部国文科の選科生になられる。しかし向学の志は固く、旧制高等学校卒業生に優先されていた本科の道を大正12年、第一高等学校で改定資格をとることによって選ばれて、大正13年、本科生として卒業、正式に学士号を得ておられる。努力家で、負けず嫌い、明治生れ特有の気骨のある人柄で、頑固さをもっておられたようだ。
英文科の経歴、大正期の西欧的な思想を基本にもっておられながら、公立中学校の教師として、また管理職として、時代が国家主義に変り、ご自身もその流れに従わざるを得なかった矛盾は、自分でも気がつかれ、言動に現れたことがあったのではないか、と私は考えている。ただ、ヒューマニストの姿勢は、一貫して変っておられなかったと思う。
このエピソードは、手塚校長の一側面であり、伝記の一部として紹介するものでない。この話だけで、故人を、あまりにも「立流な人」としてもらっても困る。
手塚先生が、府立第二十一中学校の校長となるべく開設準備委員となられたのは、昭和15年(1940年)である。翌年4月8日、桜の満開のなか一回生の入学式が行なわれ、府立二十一中は誕生した。新設校であり伝統もない白紙の中学校へ、初めて校長職につかれた、夢は大きなものがあったと思う。
創立当時から戦争が激しくなるまで、手塚校長の選ばれた諸先生方には、優秀で個性のある方々が多かったのをみても、意気込みと、姿勢を窺うことができる。
昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が始まり、その後4年間、日本は、全世界を敵にまわして戦った。昭和20年(1945年)8月15日、無条件降伏、敗戦後の混乱、その時代を背景に考えていただきたい。
軍隊では、私的制裁が日常茶飯事に行なわれており、中学校教育にも、その影響が徐々におよんでいた。
第一に、手塚校長が諸先生方に対し、厳しく「生徒を撲ってはいけない」と申し渡したとのこと。生徒の身体に傷つけてはいけないことである。生徒を撲ったことが手塚校長に知れると、その先生は、校長室に呼ばれ、叱責されたそうである。
第二に「時間を守ること」。生徒の遅刻には、非常に厳しい対応があった。それ以上に生徒を指導する諸先生方の遅刻には厳しく、校長室から出勤の状況をみて、強く注意されたとのことだ。これを恐れた先生のなかには、裏側からこっそり入った方もおられたとか。要は、生徒第一の主義であられた。
このことが具体化したのは、不幸なことであったが、学徒の勤労動員の時である。
昭和19年(1944年)初夏、今になって考えてみると、既に敗戦の色も濃く、先生方も次々と戦場に赴き、軍関係の工場は人手不足となり、学徒動員令が施行され、中学校、高等女学校の4年生以上は、軍関係工場へ労働者として派遣されることが決まった。
わが校は、中島航空金属会社田無工場に行くことになった。その時、手塚校長は、西欧的というか、工場側と「生徒を生命に危険な作業につかせない。」との内容の約束を固く交したそうである。
勤務は、午前7時から午後3時、午後3時から午後11時、始発電車で家を出て、最終電車帰る、という二交代、深夜勤務は、年少(15、6才)のためか、手塚校長の交渉のおかげか、まぬがれた。
作業のなかに、航空機のエソジンをアルミニウム合金鋳もので作るものがあった。電気炉で赤黄色に溶かしたアルミニウム、大釜から、大きな柄杓でこれを汲みとり、鋳型まで運び流しこむ作業である。転べば大火傷はまぬがれず、水滴が入れば爆発をおこす。手塚校長は、何回も当局に抗議をしたが、最終的には聞き入れられるどころか、派遣の軍将校から逆に恫喝される始末。
手塚校長は怒った。勤務時間が変る時には、最終電車で深夜に帰った生徒が、翌朝始発電車で出勤しなければならず疲労しているうえに、こんな作業では明らかに約束違反であり、即、撤収を考えられた。
サイパン島は占領され、アメリカ軍が刻々と本土に迫っていた時期である。軍当局もこれを問題にしないはずはない。先生方のなかにも時局をわきまえず、手塚校長は行きすぎだとの議論も多かったという。
交渉は、田無警察署で、憲兵隊、警察署長、工場長、学校側から手塚校長、担当の先生方、交渉時のテーブルの上には、当時として考えられない「山海の珍味」がもられ、先方からまず食事でもしてから相談しましょう、との申し出がなされた。
しかし、手塚校長は、食事は話が終ってからと固辞され、後は激論の応酬で話し合いはつかず、遂に食事はせず帰られたとのことであった。
数日後憲兵隊本部から、手塚校長一人だけの出頭命令があった。諸先生は、当然手塚校長は解任、管理職も退任を覚悟されたそうである。
ところが手塚校長は、もち前の雄弁で憲兵隊の費任者を説得し、直ちに中島航空金属会社より日本無線へ配置転換となった。井上先生は、多分手塚校長は、憲兵隊の責任者に、自分のご子息ならどう判断しますか、といった話でもしたのではないか、と当時を回顧しておられる。
手塚校長は、本土決戦で本土が戦場となり、戦って死ぬのならいたしかたないが、工場の動員中、大切な生徒の生命が失われるのは犬死で許せない、といっておられたそうである。
当時は食糧不足で、そのため校庭を耕し、サツマ芋畑に動員に行かなかった下級の生徒が作業した。担当の某先生が、芋苗を用務員を使って農家へわけてもらいに行かせた。ところがもらってきた荷は、使い残りの貧弱なもので、とても芋はできそうになかった。その時、手塚校長は、「生徒が汗を流し、体力を使って作った畑、苗は、どうして責任者の君が直接、農家へ行かなかったのか」と叱られたとのこと。この件でも、生徒第一の思想が垣間見える。
戦中、戦後とも在任中、学校全部の生徒の家庭状況、親、兄弟姉妹のことは、担任よりもよくご存知だったとのこと。毎日のように校長室で生徒の調査書に目をとおされておられたそうである。
先生方が書類を校長に提出するとき文字が乱雑で読みにくいと、下手な字でもよい、他人が理解できる文字、文章を書けと、注意があったそうだ。学校の費用での私的飲食は厳禁であり、接客婦など女性を宴席によぶことなどはもってのほかであった。
戦後、昭和22年(1947年)、GHQの指令で、六・三・三・四の現在の学制が発足した。そのとき一時、旧十八高女の校舎敷地、3千坪弱を中野区立八中に貸したことがあった。その後、中野八中PTA、中野区、東京都、背後にGHQの半ば命令的な、旧十八高女用地譲渡の話がでた。その交渉には、井上先生も同席されたそうであるが、この時も手塚校長は職を賭して出席され、高校には最低1万坪は必要であると頑とし受けつけず、とうとう自説を貫き、現在の用地を確保した。
手塚校長は、自らにも厳しくされておられたが、そのためほとんどご自分の主張は変えず、諸先生に相当きつく当られたようで、叱責を受けた先生のなかには、手塚校長を嫌われた方々も何人かおられたとか。
手塚校長は、自分が教師をやめるまで武蔵丘でと決めておられ、栄転は何回も断っておられたそうであるが、やむを得ない事情があったのだろう、昭和24年(1949年)都立第五女子新制高等学校(現富士高校)へ転出された。
こんな話を校章調査の過程で、はからずも古い先生方からお開きした。知らなかったことばかり、驚きの連続、であった。
当時は戦時中でもあり、私を含め友人の多くは、諸先生から撲られた経験はあるはずで、手塚先生がとられた方針に対する違反はあった。
敗戦前後の混乱した時期には、手塚校長の方針は、必ずしも諸先生、生徒に十分浸透していなかったかも知れない。
ただ、今になって振り返ってみると、手塚先生は、校長先生らしい校長先生であった、と、しみじみ思う。
手塚先生略歴
明治28年2月28日生
(栃木県下都賀郡姿村)
大正3年3月
栃木県立下野中学校卒業
8年3月
東京高等師範文科紡三部卒業
大正8年4月~同10年3月奈良県立郡山中学校教諭(英語)
10年4月
東京帝国大学文学部国文料選科入学
12年4月
高等学校卒業検定合格 東京
帝国大学文学部国文科本科転籍
13年3月
東京帝国大学文学部国文料卒業
13年4月
東京府立第八中学校教諭
昭和14年6月
東京府立第七中学校教諭
16年2月
東京府立第二十一中学校校長
24年6月
東京都立第五女子新制高等学校校長(現富士高校)
30年9月
東京都立富士高校校長勇退
34年4月
二松学舎大学教授
以降藤女子大学、水戸短期大学教授等を歴任
昭和46年7月16日歿(享年76才)
今、道路に街路樹は欠かせません。在来種の“けやき”や“いちょう”もあり、外来種の“ニセアカシア”も使われています。
無機的なコンクリートの街には、緑が必要なのでしょう。場所によって果実産地はわざわざその土地で栽培されている果実の木を使うような例もあります。
パリから“マロニエ”を移植したと誤解される“トチノキ”、同じトチノキ科でもマロニエとは全く別種で在来種で、東京の中心部の街路樹になっています。
日本ですから当然、各種類の“サクラ”も使用され、“道”そのものが名所となっている所すらあります。しかし街路樹も、大木となったり、木の実や落葉が交通障害になることがあり、選ぶのは案外苦労するようです。
北海道大学の“ポプラ”も古いものですが、江戸時代の東海道などの街道の松並木や、日光の杉並木も街路樹の仲間でしょう。天然記念物に指定されていることもあります。
ただ、今の都市の状況から、大きくなる木は避けざるを得ないでしょう。
その点からみると、50年ほど前より増えてきている“ハナミズキ”は、大きくならず適しているかもしれません。5月上旬、白や淡紅色の花が咲き、秋には紅い実がなり紅葉もします。すでに名所になっているところもあり、街路樹として優れている木だと思います。
知られている方も多いとは思いますが、“ハナミズキ”の原産地は北アメリカです。1915年、東京市長の尾崎行雄氏がワシントンに贈った桜のお礼としてのお返しの木で、当初日比谷公園に植えられました。
花弁状の四枚は葉の変形で、学問的には総包弁と言います。中央の小塊が花です。正確な日本名は“アメリカヤマボウシ”といいます。アメリカがつくのは、わが国の山地に“ヤマボウシ”が自生しているからです。ミズキ科の落葉樹で高さ6から10メートル、6月頃、山中に雪が冠ったように白い花を咲かせます。白花だけです。名前の由来は、丸い蕾を法師の坊主頭に、白い包弁をその頭巾に見立てた命名です。“アメリカヤマボウシ”(ハナミズキ)と近縁で、日本特産、葉も花の作りもそっくりで、最近公園や庭木として植える傾向になってきています。
5年ほど前から、西武池袋線の富士見台駅から武蔵丘高校へ向かう道の左側の街路樹に、この“ヤマボウシ”(ニホンハナミズキ)が植えてあるのに気づきました。その後次第に本数も増え、現在では20本以上あります。
私は、今後街路樹は在来種で、とこだわってはいませんが、6月頃愛らしい白い花を咲かせてくれる“ヤマボウシ”があるのは嬉しいことと考えています。区画整理や街づくりのとき植えられる街路樹に、是非この“ヤマボウシ”を植えて欲しい気分です。秋には実がなり、桑の実に似て食べられます。
皆さん、武蔵丘高校の通学路に植えられている“ヤマボウシ”(ニホンハナミズキ)、6月白い花の咲く時、地味ですが愛らしい、美しい花を是非観賞してください。
私は都会で育ちました。家の周りに田や畑こそありませんでしたが、屋敷林も多く、近くに草野球用の球場と、球場の4倍ほどの広さの草原(クサハラ)に囲まれ、恵まれた環境でした。草原には、近くに川や池もないのに、夕方“ギンヤンマ”が群れていました。“ムギワラトンボ”は普通に見かけられ、草の中には“イトトンボ”、秋の運動会の空は“アカトンボ”が覆っていました。どこかの池や沼から飛んできたのでしょう。“トンボ”のいる街は、今では我が国では見られません。
農業は、産業革命より大きな自然破壊を起こしました。森林は伐採、河川は蛇行する習性を抑えてまっすぐに。弘法大師説が残るほど、領主も治水に力を注ぎます。だだ、武田信玄の霞堤のように自然の力を利用、あふれるのを想定した堤も作る。そのため農家は土台を高く、食糧も蓄え、舟を天井につるすなど備えました。その規模の大きいのが、木曽、長良、揖斐の三河川の集まる地域に数軒の家が土地を高く堤防で囲み、洪水に備える輪中(ワジュウ)部落を作ったほどです。
明治になると、政府はオランダが海に堤防を作り国土を拡大した技術を学び、我が国の治水事業の基本にします。
河川の堤防を高く丈夫にし、蛇行を抑え土地を増やします。平野の部分が多い石狩川は短くなり、信濃川が日本一長い川になります。その結果、洪水の時遊水池にもなる湿地や沼などが減少、大規模なものは渡瀬遊水池ぐらいになってしまいました。
中小河川・用水路もコンクリートにし、堤防も頑丈で高くなり、大河川も直線に近づいている現状です。昔は、あふれさせて被害を小さくさせる治水が、180度変わりました。そうなると、川の水の調整は“ダム”に頼るほかなくなってしまいます。
30年ほど前、長崎の諫早川で多数の犠牲者を出した諫早水害は、中小河川の直線化の弱点があらわれたのです。
国土面積の狭い我が国では、やむを得ない対策であったかも知れません。
湿地や沼などを失った都市、それが農村部にも及んでいるのが現状です。
最近、“トンボ”“ホタル”など、水中で幼い時を過ごす虫たちの減少も、農薬の影響が大きいのは理解できますが、環境の変化が及ぼしたことも基本にあるのではないか、と思います。
このような自然は、人間にとっても好ましいものではありません。水生昆虫のいる、緑が豊かできれいな水に囲まれた環境が、これから必要になるでしょう。
経済成長期の両国の隅田川のドブ臭さ、多摩川下流の洗剤の泡は、人の努力で清流に戻りつつあります。
食糧の6割を輸入している我が国は、食糧生産の源流の“水”の間接的な輸入大国なのです。その輸入先の大陸の水資源は、現在すでに危険な状況になりつつあります。
将来、水は、石油や金属とともに重要資源のひとつに、いやもっと大事なものになるやもしれません。
“トンボ”から人間と水の関わりを考えることができます。昔のように、夕方“トンボ”を追う世の中の復活を夢みています。